「日の丸原油」の開発
産業の確立は、「文明の血液」と呼ばれる石油の存在なくして語れない。20世紀が「石油の世紀」と言われるゆえんだ。
無資源国の日本は「石油の一滴は血の一滴」のスローガンの下で石油を求めて太平洋戦争に突入し挫折した。そして戦後、日本の資本によって生産された自主開発原油、いわば「日の丸原油」を手にするため本格的な石油開発が始まった。
アラビア石油は1958年7月、クウェート政府とクウェート沖合の海底油田の原油採掘権協定に調印した。日本が歴史上初めて、外国で「日の丸原油」を開発する権利を獲得した日だ。
当時、産油国で資源ナショナリズムと反メジャー(国際石油資本)感情が渦巻いていた。
戦前は旧満州で住宅事業。戦後は石油ビジネスへ
山下太郎は戦前、旧満州(現中国東北部)での住宅事業に成功した。「満州太郎」と呼ばれた。
サウジ沖の油田利権に注目
戦争体験から石油の重要性を痛感した。戦後は石油ビジネスに向かった。山下太郎(当時68歳)は、サウジアラビアとクウェートの中立地帯沖合に広がる油田の利権が譲渡される、との情報をキャッチした。
1957年、さっそく砂漠の国へ飛んだ。そこでは、現地政府との厳しい利権交渉が待ち構えていた。
アラビア石油(アラ石)を日本の法人に
技術も資金もない敗戦国の企業が、メジャー相手に鍛えられた産油国政府と交渉するのは容易でない。山下太郎は二度、あきらめかけた。
最初はサウジアラビアとの交渉でのこと。山下太郎が設立したアラビア石油(アラ石)を現地法人とするよう求めるサウジ政府の姿勢に、山下太郎はくじけそうになった。後の石油相となるヤマニ法律顧問との粘り強い折衝で、日本国内の法人とすることに決まった。1957年末、サウジアラビアとの交渉は成立した。
メジャーとの利権争奪戦
続くクウェートとの交渉はさらに厳しいものとなった。利権を狙うメジャーがクウェート政府に、猛烈な圧力をかけてくる。
クウェートとの交渉
当時、海上のロイヤル・ダッチ・シェルの石油掘削やぐら(リグ)がシャマール(砂あらし)と高波で倒壊した。クウェート政府の外国人顧問は「メジャーは、日本にやらせても、もし1基100億円もするリグが倒れたら、開発を続けることはできないだろうと言っている」と漏らした。日本の資金力の弱さを突くメジャーの心理的揺さぶりだ。
さらにメジャーは、クウェートに有利な条件を次々と出してくる。「勝ち目はなさそうだ。帰ろう。サウジの利権は他社に譲ってしまおうか」。山下太郎は弱音を吐いた。
だが、一方で熱心に日本側の真意を訴えた。「日本は、中東地域で少しも領土的野心は持ってない。産油国と消費国が協力してともに経済復興を目指そう」
カジフ油田を獲得
最終的にクウェート政府はアラビア石油を選び、後に日本全体の輸入量の約4%をもたらす「カフジ油田」を手に入れることができた。
中東のアラブ民族主義と資源ナショナリズム
当時、中東では、アラブ民族主義に基づく資源ナショナリズムの旋風が起きていた。
スエズ動乱
エジプトのナセル大統領は1956年7月、スエズ運河の国有化を宣言した。これに反対する英、仏、イスラエル軍と軍事衝突した。スエズ動乱だ。
スエズ動乱を機に、かつて植民地だった中東各国には旧宗主国への反発が一気に噴き出す。同時に欧米資本のメジャーに対する反発も高まった。
その時期に、利権交渉に乗り込んだのが山下太郎だった。幸運だったともいえる。
山下太郎が獲得した利権は、2000年2月で期限切れとなった。
吉田茂が評価
山下太郎は、石油採掘に成功した際、神奈川県の大磯に住んでいた吉田茂・元総理大臣(首相)を訪れた。吉田茂といえば、史上最も偉大な総理大臣と評価されている人物である。この訪問には、岸信介、池田勇人、佐藤栄作の3人(いずれも総理)が同行した。
山下が帰った後、吉田は「山下太郎は頭は良さそうではないが、すごい男だ」と評した。「これで日本が列強の仲間入りをした。国産原油をついに手に入れることができた」と喜んだ。
故郷での寄付
山下太郎は教育、研究などの分野への支援を惜しまなかった人物でもある。故郷・秋田県横手市大森町に1926年から20年間にわたり、年間1000円の寄付を続けた。また、母校・北海道大学に生物化学研究所(別名山下研究室)の設立資金を寄付するなどしている。
こうした山下太郎の遺志を継ぐ形で、文子夫人が1989年、青少年の人材育成のための財団を古里に創設してほしいと10億円を提供した。この申し出により1989年、山下太郎顕彰育英会が設立された。
ニックネーム一覧
- ・満州太郎
- ・アラビア太郎
- ・山師太郎
- ・政商
- ・黒幕
- ・昭和の天一坊
- ・バッタ屋
- ・一発屋
- ・大ボラ太郎
- ・怪物
- ・プレゼント魔